※この記事はウォッチ買取応援団としてYoutubeにアップした動画、「ジラール・ぺルゴの歴史|不屈の精神で幕末の日本市場を切り開いた男」の書き起こしです。
本日は、ジラール・ぺルゴの歴史について、お送りして参ります。ブランドの創業は1791年。ヴァシュロン・コンスタンタン、ブレゲ、ペルレに続いて、世界で6番目に古い時計ブランドと言われています。
しかし、一般的な知名度はそれほど高くなく、どちらかというと玄人好みな印象。私自身もそこまで深くは知らないブランドでしたが、今回歴史を調べてみて、非常に興味深かったことがあります。それは、日本市場への挑戦。
実はこのブランド、私たち日本の時計ファンにとっては、知っておかねばならない存在なんです。ジラール・ぺルゴとは一体どんなブランドなのか。長い歴史を辿りつつ、その魅力を紐解いていこうと思います。
目次
創業は1791年
さて、まずは創業期からお話していきます。
創業は1791年のスイス ジュネーブ。創業者ジャン=フランソワ・ボットが21歳の時に構えた『ボット社』という工房が、ブランドのスタートとなります。
ちなみにジャンは、少年時代から時計作りに携わっており、12歳の時すでにその才能を高く評価されていたそうです。
創業後は、早くから量産化を実現。自社一貫生産『マニュファクチュール』というやり方で、上質な時計を数多く作る戦略を取っていきます。同時にヨーロッパ各地に自ら赴くことで、販路を広げていきました。
結果、ボット社は、常勤180人以上、内職120人以上の時計職人を抱える、大規模な工房へと成長していきました。
引用元:https://www.girard-perregaux.com/ja
ジラール・ぺルゴの誕生
一方、ブランド名はなぜジラール・ぺルゴなのか。実は、このブランド、創業者が2人いるという珍しいブランドなんです。
ブランド名がボット社から、現在のジラール・ぺルゴに変わったのは、創業者ジャン=フランソワ・ボット没後約70年が経過した1906年から。
ボット社は、ジャンの死後、その家族が経営を引き継ぎ、時計作りを続けていました。と、そこに加わったのが、同じスイスで時計を扱っていたコンスタン・ジラール&マリー・ぺルゴ夫婦でした。
引用元:https://www.girard-perregaux.com/ja
1856年以降は、この夫婦がボット社の工房をまるっと引き継ぐ形に。創業者ジャン=フランソワ・ボットの時計作りをしっかりと継承し、1889年のパリ万博で金賞を受賞するなど、知名度を高めていきます。
また、拠点をジュネーブからラ・ショー=ド=フォンに移転。生産体制も強化し、アメリカやアジアなど、世界展開を成功させていきます。
その後、ボット社とジラール&ぺルゴ夫婦の会社は、正式に合併。1906年にブランド名を新たに『ジラール・ぺルゴ』と統一したわけです。
ジラール・ぺルゴと日本の関係
さて、ここからは、冒頭で触れた内容、日本とジラール・ぺルゴの関係について、お話していきます。先に言ってしまうと、実は日本に初めて進出したスイスウォッチブランドの正規店。これがジラール・ぺルゴだったんですよ。
時は幕末。1860年代。ジラール・ぺルゴは、アジアへの販路を作るべく、日本への進出を計画します。しかし、当時の日本はというと、鎖国が終わり、少しずつ外国の文化が入り始めたばかり。スイスとの貿易は、1864年2月の修好通商条約まで行われることはありませんでした。
と、ここに切り込んでいったのが、ジラール・ぺルゴ一族の一人、フランソワ・ぺルゴという人物。1856年にボット社を引き継いだマリー・ぺルゴの弟です。
引用元:https://www.girard-perregaux.com/ja
フランソワは、時計技師でもあり、商人でもありました。今日のジラール・ぺルゴがあるのは、この人の力が大きい所。ブランドの歴史を語る上で、最も重要な人物です。
フランソワは、条約前の1860年より、日本に入り込む方法を模索。なんと、フランス人として入国することに成功します。
普通なら時を待つのみとなりそうなものですが、、、意志あるところ、道ありですね。
無事(?)入国を果たしたフランソワ。1864年には、オランダ人冒険家エドワール・シュネルと組み、現在の横浜中華街がある場所に、輸入商社を立ち上げます。
しかし、いよいよ日本での商売がスタート!と思った矢先、早速トラブルが発生。
ビジネスパートナーのエドワールが、武器を売りたいと言い出したことで喧嘩になり、、、わずか1年で解散することになってしまいました。
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日本初のスイスウォッチ代理店
やれやれ、仕切り直し。ということで、フランソワが次に作ったのが、自社の商品のみを扱う輸入代理店でした。結果的に、これが日本初のスイスウォッチ正規代理店となったわけです。
さて準備は整った。今度こそ日本での商売がスタート。が、まったく軌道に乗らず。なぜかというと、当時の日本人にとって、時計というのは大名の遊び道具。庶民が使う実用品ではありませんでした。
さらに、スイスウォッチに立ちはだかった壁。それは、日本独自の時間表記。いわゆる『丑三つ時』方式。
日の出から日の入りまで、日の入りから日の出までを、それぞれ6分割したものが、当時の日本人の『時間』というものでした。
24時間表記を用いないどころか、時間単位そのものが季節によって変動することが普通だったのが、当時の日本人。つまり、彼らにとって、スイスウォッチは、まったく意味のないものだったのです。
そしてそして、そこに更なる追い打ちをかける出来事が。1866年の豚屋火事。
別名 横浜の大火。料理店から発生した火の手は、多くの家屋を燃え尽くしました。
この火事でフランソワの会社も全焼。大きな痛手を負うこととなります。ただ、それでもフランソワはめげることなく、炭酸飲料の販売で生計を立てながら、機を伺っていました。
1873年日本でもグレゴリオ暦採用
そして、チャンスが訪れたのは、1873年。何が起きたかというと、この年より、日本でもグレゴリオ暦が用いられるようになり、1年が365日、1日が24時間となりました。
さらに鉄道整備が進み、生活様式が変わったこともチャンスに。出掛け先でも、時間を気にする必要が出てきたことで、時計を持ち歩きたいという需要が生まれたんです。ようやく日本人にとっても、スイス製のポケットウォッチが実用的なものへと変わっていったんですね。
こうしてフランソワ・ぺルゴは、多くの障害に見舞われながらも、日本でのビジネスを成功させるに至ります。
世界各地で成功を収める
20世紀以降、ジラール・ぺルゴは日本以外にも次々と進出。1950年代には、独自の自動巻き機構ジャイロマティックをアメリカ市場でヒットさせたり。
1990年代にはイタリアの英雄ラリーレーサー ルイジ・マカルーソを社長に迎え、フェラーリとのコラボモデルを成功させたり。
世界各地でヒット作を生み出すブランドに成長しています。
その強さの元を作ったのは、日本市場への挑戦。フランソワ・ぺルゴの不屈の精神だったのかもしれませんね。
引用元:https://www.girard-perregaux.com/ja
クォーツウォッチの開発でも先駆けたジラールペルゴ
また、ジラール・ぺルゴの功績には、1970年代のクォーツウォッチの開発もあります。日本のブランド・セイコーとほぼ同じ時期、スイスにおいていち早くクォーツムーブメントを作り上げたのがジラール・ぺルゴです。
その当時、スイスの時計業界はクォーツウォッチに懐疑的であったこと。また、セイコーが特許を公開するという超強力な手段に乗り出したことなどから、普及戦略で遅れを取ることに。
高い精度を求め、振動数を高く設定したが故、電力の問題がクリアできなかったことも、遅れを取った原因でした。
結果、この功績はクォーツショックという歴史の陰に隠れてしまったんですが、実はこの時に導き出したクォーツの振動数32,768ヘルツというのは、今現在のクォーツムーブメントにおいて、どのブランドでも一般的に使用されるワールドスタンダードとなっています。
引用元:https://www.girard-perregaux.com/ja
魅力的な復刻モデルたち
といったところで、ジラール・ぺルゴの歴史について、見てきました。近年は、かつての名作を復活させ、人気モデルへと押し上げていく戦略を取っていますね。
引用元:https://www.girard-perregaux.com/ja
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アール・デコ時代の名作1945や、ラウンド型ドレスウォッチ1966、かつてパリ万博で金賞を受賞した『スリーゴールドブリッジ・トゥールビヨン』など、魅力的なモデルが現代の技術で蘇っています。
また、1975年登場のエレガントスポーツウォッチ・ロレアート。当時は全く売れなかったそうですが、2016年の限定復活以降は、2017年にレギュラー化。2018年にはクロノグラフが加わるなど、人気は好調なようですね!今後の活躍にも期待大です!