ドイツのマニュファクチュールブランド、A.ランゲ&ゾーネの歴史について、その魅力と実像に迫っていきます。
パテック・フィリップ、オーデマ・ピゲ、ヴァシュロン・コンスタンタン、ブレゲと共に、世界5大時計ブランドに数えられる名門として有名ですが、その歴史は悲運の連続でした。
悲運に見舞われながらも、見事な復活を遂げ、世界5大ブランドにまで上り詰めるまでのストーリー。見ていきたいと思います。
目次
- A.ランゲ&ゾーネとは?
- ランゲ&ゾーネのラインナップ
- 並々ならぬムーブメントへのこだわり
- 創業者フェルディナント・アドルフ・ランゲ
- エルツ山地グラスヒュッテ
- ランゲブランド誕生へ
- 廃坑の村からドイツ屈指の精密機器産業地帯へ
- ランゲの息子たち
- 戦火により本社が破壊 さらに町は国営化へ
- 機を伺ったウォルター・ランゲ
- ランゲの復活!ウォルターを探せ!
- ドイツ最高峰としてのA.ランゲ&ゾーネ再起
- 徹底した一点製造の時計
- まとめ
ブランドとしての存在は戦争によって一時消滅。1960年代に再興を試みるも、まさかのクォーツショックが到来。
それでも1994年に奇跡的な復活を遂げ、ランゲ1をはじめとする4つのコレクションを発表。徹底したモノづくりへの姿勢が高く評価され、瞬く間に世界中で愛されるブランドへと成長を遂げています。
本文中の画像は、ランゲ&ゾーネ公式サイトより引用:
http://www.alange-soehne.com/ja/home
A.ランゲ&ゾーネとは?
では、まずはA.ランゲ&ゾーネというブランドについて、ブランドの特徴と、代表的なモデルを見ていきましょう。
A.ランゲ&ゾーネの創業は1845年。ドイツ北部・ザクセン王国の時計師フェルナンド・アドルフ・ランゲによって立ち上げられました。
先にも触れた通り、一度は戦争でブランドの歴史が途切れてはいますが、1994年に4代目の経営者であるウォルター・ランゲの手によって復活を遂げ、現在に至ります。
2000年には、リシュモングループの傘下に加わり、2001年には新工場を設立。2019年現在は5つのコレクションが展開され、伝統的な手作業での時計作りが続けられいます。
ランゲ&ゾーネのラインナップ
代表的なモデルでは、ランゲ1やサクソニアが有名ですね。どちらも1994年の復活時に発表されたモデルです。
ランゲ&ゾーネの時計、なにが凄いのかというと、徹底した自社製造へのこだわり。大まかに一貫生産し、細かい部品は部品メーカーからの供給を受けるという形が、近年の高級時計の主流ですが、ランゲ&ゾーネは部品一つ一つまで自社で製造を行っています。
ムーブメントの地金や、レバー類、バネ、歯車。さらには専業でないと難しいとされるヒゲゼンマイの製造まで自社で行うということに加え、組み立ての際には一度組んでテストをした後に分解。検査、装飾を施してから、再度組み上げるという徹底ぶりです。
さらに、各コレクションごとに異なるムーブメントを使用している点も、他のブランドと大きく異なるポイントです。
並々ならぬムーブメントへのこだわり
分かりやすい例でいうと、ロレックスの場合、ダイバーズモデルのサブマリーナデイトと、ノンスポーツモデルのデイトジャスト。この二つは、時計の用途もキャラクターも異なりますが、ムーブメントは同じものを使っています。
これと同じように、傑作的なムーブメントを一つ作り、それをベースにモデルを展開していくというのが、時計メーカーとして効率的なスタイルです。
しかしながら、ランゲ&ゾーネの時計作りは、まったくその逆を行く発想。効率的な生産ではなく、すべての時計を一点ものとして作り出すという方法を取っています。
その根本にあるのは、『伝統的な手工芸を基盤とした少量生産の嗜好品』としての時計作りを行ってきた創業者フェルナンド・アドルフ・ランゲの思いがあるわけです。
創業者フェルディナント・アドルフ・ランゲ
フェルナンドは、1830年、15歳という若さで時計師の道を目指し、ドイツ最高峰の時計師とも呼ばれた宮廷時計師ヨハン・フリードリヒ・グートケスに弟子入り。5年間の修行を経て、一人前の時計師となります。
その後は、単身フランス・パリへ。更なる技術の向上を目指し、天才時計師ルイ・ブレゲの弟子でもあったフランスの時計師ヨゼフ・タデウス・ヴィンネルの工房で働きながら、ソルボンヌ大学で天文学、物理学を学びます。
フェルナンドは、1837年から1841年までに、フランス、イギリス、スイスと、旅を続けながら時計作りを学んだそうです。その修行の日々を綴ったノートは、『旅の記録』として、現在もランゲ&ゾーネに保管されています。
エルツ山地グラスヒュッテ
1841年、ドイツへと帰国したフェルナンドは、元の師匠であるグートケス氏の元へと戻り、ザクセン王国の正当な宮廷時計師としての職に就くこととなります。
そして1845年。ブランドとしてのランゲが誕生することになるわけですが、キッカケは王室から与えられたある課題でした。
『かつて銀鉱山として栄えたエルツ山地を、また活気ある場所にできないだろうか。』
エルツ山地・グラスヒュッテは、銀の採掘によって栄えた場所でした。しかしながら、時代とともに資源は枯渇。貧困の町と化していました。
グラスヒュッテをまた活気ある町にして欲しい。その課題を与えられたフェルナンドは、自身が見てきたスイスでの時計作りを思い出していました。
ランゲブランド誕生へ
以前、別のブランドの歴史動画で触れたことがありますが、スイスの山脈地帯では、18世紀頃から時計作りが盛んになりました。
それは、雪深く農作業ができない冬の内職として、精密機器作りが発展したことに由来します。今でもジュウ渓谷のル・ブラッシュには、オーデマピゲの本社があるなど、その名残が残っています。
フェルナンドは、グラスヒュッテも時計職人の町として再興してはどうだろうか。と王室に提案。その提案は採用され、王室から多額の融資と、15人の見習い時計師があてがわれ、グラスヒュッテに工房を構えることとなります。
これがブランドとしてのランゲの誕生でした。
廃坑の村からドイツ屈指の精密機器産業地帯へ
創業後、最初当然上手くは行かず、資金繰りがピンチになりますが、家財を売るなどしてなんとか乗り越えていきました。
1846年には、現在も引き継がれるムーブメント構造『4分の3プレート』が開発されるなど、徐々に軌道に乗り、やがて技術が向上した技師たちが、部品工房を立ち上げて独立していくほどにまで成長していきました。
後にフェルナンドは、時計学校も開講。さらには自らが市長となり、街づくりに大きく貢献していきました。
こうして、貧しかった廃坑の村は、次第にドイツ屈指の精密機器産業地帯へと変化していったのです。
ランゲの息子たち
その後、ブランド名が現在のA.ランゲ&ゾーネとなったのは、1868年のこと。フェルナンドの息子であるエミールとリヒャルトが加わってからとなります。
A.ランゲは、フェルナンド・アドルフ・ランゲのこと。そしてゾーネは、ドイツ語で息子たちという意味です。
フェルナンドは、自身がフリードリヒ氏に教わったのと同じように、息子たちにも熱心に技術を継承。1875年に亡くなった後も、息子の代、孫の代と、その技術は衰えることなく、しっかりと引き継がれていきました。
戦火により本社が破壊 さらに町は国営化へ
しかし、順風満帆だったのは束の間のことでした。20世紀に入り、サラエボ事件をきっかけに、第一次世界大戦、世界恐慌と立て続けに悲運に見舞われます。
1929年の世界恐慌では、急激なインフレから生産量が激減したものの、なんとか乗り切りましたが、すぐさま第二次世界大戦へと突入。その流れから、グラスヒュッテの時計工房は、軍需工場として使われることを余儀なくされました。
そして運命の日。1945年5月8日。ソビエトからの空襲を受け、ランゲ&ゾーネの本社社屋が破壊されてしまいました。
時計作りの資料や製造設備まで破壊されてしまったことで、時計工房としての復旧は難しいものに。
さらにグラスヒュッテは、敗戦国となった東ドイツの区内にあったため、ソビエトの占領下となってしまいます。
フェルナンドが創り上げてきた時計作りの町は、すべて国営化され、ブランドとしてのA.ランゲ&ゾーネは消失してしまいました。
機を伺ったウォルター・ランゲ
不幸中の幸いだったのは、当時の経営者であったフェルナンドの曾孫、ウォルター・ランゲが、なんとか無事に西ドイツへと亡命していたこと。
ウォルターは、曾祖父が創り上げてきたブランドを、なんとか復活したいと願いながら、機を伺っていました。
しかしながら、この時はまだ時代が味方することはありませんでした。
1960年代、ウォルターは、スイス・シャフハウゼンに拠点を持つ有名ブランドIWCとの交友関係を持ち、水面下にブランド復活を進めていくも、あえなく撃沈。
何があったかというと、スイスの時計産業をほぼ壊滅状態に追いやった一大革命・クォーツショックですね。
第一次世界、世界恐慌、第二次世界大戦、そしてクォーツショック。度重なる悲運からの転記が訪れたのは、そこから20年後。
ベルリンの壁崩壊による、東西ドイツ統一のタイミングでした。
ランゲの復活!ウォルターを探せ!
1990年。ランゲ&ゾーネ復活に動いたのは、ウォルター、、、ではなく、ドイツの財閥マンネスマングループでした。
当時マンネスマングループ傘下にはIWCがあり、かねてから交友のあったA.ランゲ&ゾーネを『ドイツ最高峰の時計ブランド』と称えていました。
『東西ドイツ統一という記念すべきタイミングで、最高峰を復活させようじゃないか!』
財閥から命を受けた当時のIWC社長ギュンター・ブルムラインは、最後の継承者であったウォルター・ランゲを探すことに。
すると、なんとまあ偶然にも、マンネスマングループ傘下の企業で働いている66歳のウォルターを発見!!
幸いにもクォーツショック後もブランドの復活を望む気持ちは冷めておらず、IWCの全面協力の元、ウォルターを含む7人の精鋭メンバーによって、ブランドとしてのA.ランゲ&ゾーネ復活に向けての準備がスタートしました。
ドイツウォッチ最高峰としてのA.ランゲ&ゾーネ再起
そして1994年。満を持して、A.ランゲ&ゾーネが復活の狼煙を上げます。
新生ランゲは、創業者フェルナンドがそうしたように、一つ一つの時計を手作業で製作。ランゲ1、サクソニア、プール・ル・メリット、アーケードと、4つのコレクションを発表しました。
すべてがドイツ最高峰の名にふさわしいものでしたが、特に注目を集めたのはランゲ1。
創業者フェルナンドが、師グートケスと共に作った、ドレスデン・オペラハウスの時計をモチーフとした美しい時計は、ドイツウォッチの歴史と伝統を重んじたものとして、高く評価されました。
こうして奇跡の復活を遂げたA.ランゲ&ゾーネは、瞬く間に世界中の時計ファンに知られる存在になり、生産量が追いつかないほどに成長。
その後の活躍は、ご周知の通りです。
2017年春。ウォルター・ランゲが惜しまれつつもこの世を去ってしまいましたが、現在も創業時からの時計作りへの姿勢は変えることなく、しっかりと引き継がれています。
徹底した一点製造の時計
というわけで、本日はA.ランゲ&ゾーネの歴史について、見てきました。
ところで、ランゲの時計、お店でもあまり見かけることがないのは、徹底した一点ものとしての製造を続けているからなんですね!
先日価格相場調べた際も、販売しているお店が他のブランドとは比較にならないくらい少なくて戸惑ってしまいました。
グループでの時計作りが主流となり、どんどん効率化が進む中、グループに属しながらもまったく逆を行くスタイルのランゲ。今後どんな展開をしてくるのか。いや、してこないんでしょうね、きっと。
ランゲはランゲのまま、手作りによる価値の高い時計を絶やさず作って欲しいと切に願います。
まとめ
ドイツにスイス式の時計作りを持ち込んだ創業者フェルナンド・アドルフ・ランゲ。その技術を継承したゾーネたち。そして、戦争で途絶えた歴史を復活させた人々の思い。
ランゲの時計に向き合う時は、ブランドのストーリーと彼らの思いを、ぜひ感じとってみてくださいね!